人は何故音楽を愛するのだろう。
・・・・なんちゃって、そんな難しいことは私にはわからない。
科学方面、それも脳医学に詳しい方にそのネタは譲るとして、私自身のこれまでの音楽遍歴を僭越ながらご紹介したく、今回筆をとった次第である。
Musical Blood「音楽の血」 いきなり自分の親族の話から始まるのも何だが、私の母方の祖父は、ちょっとした作曲家だったらしい。本業は教職にあったのだが、由利郡象潟町立象潟小学校の校長職にあった際、校歌を作曲し、今も子供達に歌い継がれている。こよなくチェロを愛した彼は、その豪放磊落な性格とは裏腹に、繊細な音楽を通じ、生徒達を訓導したという。
その祖父を筆頭に、音楽好きの血は脈々と我々子孫に受け継がれている。さすがに私たち孫世代になると、だいぶその血も薄まってしまうようだが、それでもいとこに中にも音楽の教師もおれば、ピアニストもいる。私の場合は、もともと飽きやすく、しかも怠けやすい性格が災いして、ピアノを習っても長続きせず、従って楽譜もろくに読めない落ちこぼれなのだが、それでも音楽を愛する気持ちは人一倍強いと自負している。
Holly place of Rock music for me「聖地リヴァプール」 私が物心が付いて、初めて自分からすすんで聴いたレコードは、家にあったベートーヴェンのNo.6「田園」交響楽であった。幼稚園か、小学校低学年であったと記憶する。もちろんそれ以前にも、幼児用音楽という者は身の回りに存在し、頻繁に聴いてはいたが、本格的?にLPレコードというものを聴いたのは、その「田園」が初めてだったと思う。
風景をそのまま音楽化したようなあの交響曲には、幼いながらもずいぶん感銘したことを鮮明に覚えている。
そして、小学校3年生の時に、初めて洋楽というものに触れる。その洋楽こそ、当時、解散してなお根強い人気があり、再結成の噂がひっきりなしに流れていた"The Beatles"である。
(確かNHKで放送された)特集を見て、とんでもない衝撃を受けた。しかも解散して五年近く経っていたバンドで、デビューした当時は自分もまだ生まれていないほど歴史のあるバンドだったにもかかわらず、(私たちヒノエウマ世代は、彼らが来日した頃に生まれている。)その音楽性の新鮮さは、小学生の私にも十分伝わってくるものだった。
Private English Teachers「英語の先生」 私のいとこに、8つ年上で私が兄みたいに思っている人がいるのだが、そのいとこがこれまた大の音楽好きで、そのビートルズとの出会い以降、彼が私の音楽的嗜好の指南役になってくれることになる。
彼は当然私よりもずっと以前からビートルズを聴いており、そのほとんどのシングル版を持っていた。私は毎日彼の家に入り浸り、ヘッドフォンでビートルズを聴きまくり始めた。そんなおかげもあって、小学校4年生の頃には、"I wanna hold your hand(抱きしめたい)"などは英語のままそらで歌えるようになっていた。
またそのように英語を片言でも話せるようになると、もっと英語について知りたくなるのは必然で、結果自分で単語の読み方を調べたり、意味を調べたりと、今思えばビートルズがまるっきり私にとっての英語の先生になったと言っても過言ではない。
中学1年の夏休み、そのいとこは私に、"The Rolling Stones"のアルバム、"Aftermath"と、"Get ya ya ya's out"という二枚のレコードをプレゼントしてくれた。レコード屋さんに買いに連れていってもらったときは、心から嬉しかったものだ。なにしろ中学生の私のおこずかいはたかが知れていて、なかなかLPレコードなどは買えなかったからだ。
それが私とストーンズとの出会いであった。
これまた強烈な衝撃であった。第一印象として、同じイギリス人でも、ビートルズとでは英語の発音が全く違うのが驚きだった。ビートルズの二人(ジョンとポール)の(歌での)英語は、どちらかといえば、平たい英語で、母音が日本語に近いものがある。それがミック・ジャガーの、あのクチビルから発せられる英語というものは、まさに生々しい、ねちっこいもので、たとえば girlの発音一つにしても、ジョンが歌うGirlは、♪ガーァルと聞こえてくるのだが、ミックの場合、♪グゥァールと、いわゆる巻き舌の英語で耳に入ってくる。(どうもカタカナにするとそのニュアンスが表せないが・・(^_^;))
ビートルズが私に音楽と英語の興味を与えてくれたならば、ストーンズは私に英語の発音、後年には生き方も教えてくれることになる。
What's Glam Rock?「グラム・ロックとは」 私は中学生の多感な時期に、様々なロックアーティストを聴き込んだ。
なかでもグラム・ロックに傾倒し、デビッド・ボウイ、T-Rexのマーク・ボランという人達には、かなりのめり込んでいった。極論すれば、ボウイは、私が生まれて初めて愛した「男性」かも知れない。(変な意味にとらないで下さい(^_^;))
彼がNHKホールで来日公演した模様を、先述のいとことテレビにかじりついてみたことを覚えている。セーラー服を着て、ギンギンの化粧で歌いまくる彼は、とても輝いていた。私は「こんなに格好良くて、音楽も素晴らしいんだから、天は二物を与えずと言うことわざはウソだなぁ・・・」などと思ったりしたものだ。
今現在でもボウイは私にとっての憧れ、尊敬の対象で、こうして今の世に一緒に生きているだけでも幸せだと思うくらい、愛して止まない。もちろん、来日となれば、万難を排してコンサートに出かけている。
ボウイといえば、当時日本の音楽シーンにも、少々グラムっぽい方が活躍していた・・・本場のイギリスの影響を受けたかどうかはわからないが、バリバリメイクをして、時にはパラシュートなどを背負って歌っていた日本人歌手。そう、沢田研二である。ジュリーは、私が日本人で唯一愛する歌手である。それらの詳細については「沢田研二コンサート考」を参照されたし。
Valuable experience 『貴重な体験 「合唱」』 さて、高校生になった私は、音楽部という部に所属し、そこで色んな先輩・友人に出会い、ますます音楽について興味を増していくことになる。
その音楽部とは、なんとも不思議な部活で、表向きは合唱部。しかし裏では軽音楽部(いわゆるバンド活動)という、二面性を持っていた。
したがって、本当に合唱をやりたくて入部する人もいれば、私のようにバンドを組みたくて入る人もいた。(ほとんどが後者(^^))
そこで出会った友人達は、一癖も二癖もある連中ばかりで、(自分もそう思われていたかも知れないが・・) 各人それぞれの音楽性が確立されており、私は初めて井の中の蛙だった自分をそこに発見することになる。
諸先輩方も非常に個性の強い方達ばかりで、一つ上の先輩の中には「穴馬倶楽部」の大川慶太郎こと、斉藤さんもおられ、そのギターにはおおいに魅せられたものだ。
この部には、定期コンサートがあり、春にはスプリングコンサート、冬にはクリスマスコンサートというものが催され、その他市内の文化会館を利用した「定期演奏会」をブラスバンド部と一緒に開催したり、合唱コンクールなどにも(建前上?)参加したりしていた。
普段バンドでガンガンロックをやっていながら、合唱コンクールではツッパリ頭をした我々が、「イチマンエン、イチマンエン、イチマンエーン♪」などと、「キヲツケ」をして直立不動で唄うのだから、さぞかし見ている人達もおかしかったことだろう。(^_^;)
しかしそんな体験をしたおかげで、それ以降人前で歌うことに何のためらいも、恥ずかしさも抱かなくなったと言っていい。青春時における、貴重な体験であった。
Be infatuated with young fashion
「はやりのハンテン着ちゃったわけで」大学生になると、いよいよ周りの友人達の音楽性も多種多様になり、その背景も奥深いものを持つ人が多かった。「個性で勝負」みたいな者達が自然と集まり、そこからバンドが発生していった。私が加わったバンドは、ストーンズフリークの集まりで、当然その活動もストーンズ色が強いものだった。
"Jumpin' Jack Flash" 言うまでもなくストーンズの代表曲の一つだが、(プレイしたことがある人ならおわかりだと思うが、)この曲にはストーンズの音楽性、ひいては彼らの音楽的背景が織り込まれた、単純ながらもあなどれない、不思議な魅力を持つと同時に、ロックを気のあった仲間と演奏するということの楽しさを、如実に教えてくれる名曲でもある。
そんな楽しいバンド活動を、小田急沿線のスタジオでちょくちょく繰り返す大学時代であった。ちなみこれは余談だが、町田のスタジオで練習していた頃、同じスタジオで、あの河村隆一ボーカルのルナシーもギグっていたという。我々は遊びでやっていた程度だったが、彼らのその後の成功ぶりは周知の通りである。年齢的には彼らがずっと下だが、もしかしたら私も若い彼らと通路ですれ違っていたかも知れない。(^_^;)
Wolfgang Amadeus Morzart
「ヴォルフィ・・・」そんなロック一辺倒だった私が、ある日、「アマデウス」という映画を見てから、モーツァルトに傾倒していくことになる。いわずもがな84年度アカデミー賞作品賞など各賞をを受賞した名画で、"天才"モーツァルトに対して妬み心を持つ宮廷作曲家"サリエリ"が、自らの「目の上のタンコブ」であるモーツァルトを、精神的・体力的に追い込んでいき、ついには死に至らしめるという、凡人対天才の宿命の対決?を描いている。
これまで私はこの映画を軽く100回は見ている。
そのたびに常に思うこと・・・それはモーツァルトが現代に生まれていたら、果たしてどのような音楽を作っただろうかという、夢見チックな、途方もない想像である。
ピアノの腕も神業の領域に達しており、アルペジオ奏法を好んだ彼のこと、ギターを持たせてもとんでもないロックギタリストになっていたのでは・・とか、頭の中ですべてのパートができあがってから採譜したというあたりから、ミュージシャン兼敏腕プロデューサーになっていたのでは・・など、つい考えてしまう。
おそらくベートーヴェンが現代に生まれいたとしても、たいした名は上がらないような気がする。メロディもさることながら、曲の作り方からその仕上げ方、また(ピアノ)演奏者としても、モーツァルトこそ史上最高の音楽家であると、私は信じている。(ベートーヴェン好きの方、ごめんなさい)
私は偶然にもモーツァルトと同じ誕生日であり(1月27日)彼は36歳にして夭折したので、私もその年までには、何でもいいから一仕事せねばなるまいぞ!と自分で自分を脅迫してしまうことがある。
ところが、もうその年までにはあと3年しかない・・・・。
酒ばかり飲んで、グラス片手に仕事をするあたりだけは、モーツァルトとそっくりな自分である。(苦笑) (^_^;)
Unforgettable day「忘れられないあの日・・・12月8日」 なお中学生時代には、今もって人生最大のショックな出来事があった。
早いもので、あれから今年で満20年である。
1980年12月8日、忘れもしないあの日、学校から帰宅した私は、両親の何とも言えない表情に気づく。何かとんでもないことがあったのはわかるのだが、果たして何があったのだろう・・・その重苦しい雰囲気の中、母が「ジョン、死んだよ・・・」と一言。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!!!!!!?????????
一瞬時間が凍り付いたような気がした・・・・・。
「ダブル・ファンタジー」という5年ぶりの新作がそのまま「遺作」になってしまった、ジョン・レノン。1曲目の「スターティング・オーバー」のイントロが、彼の冥福を祈る音に聞こえたのは私だけではないはずだ・・・・・・・。
Don't despise the Kids Songs!..「最近はというと・・」 最近の私は、すっかりと落ち着いてしまい、カラオケルームなどに行っても、ついつい子供用の歌などを真っ先に探してしまうようになってしまっている。(;^_^A アセアセ・・・
MIDIの部屋でも、「おかあさんといっしょ」系の歌が一番多いし・・・。
それでもみなさん、この番組の歌はバカにできませんよ。なんていったって、普遍的かつ万人向けの曲調によって、「癒し」の力まで持っているのですから。
今の歌のお兄さん・お姉さんは個人的にあまり好きではありませんが、(^_^;)一代前のけんたろう兄さんと、あゆみお姉さんは子供のみならず、親たちにも絶大なる人気があり、またさらにその一代前の、おさむ兄さんとゆうこお姉さんはいまだに根強い人気がある。かく言う私も、ゆうこお姉さんの大ファンで、おさむ兄さんのCDも持っている。^_^;
この手の話を書き出すとこの先長くなりそうなので、詳しいことは「ここ」でお読みになっていただきたい。
というわけで、ダラダラとここまで書いてしまったが、百聞は一見にしかず。MIDIの部屋でどうぞお休み下さいませ。
そこにはここで取り上げた作曲家達の曲を置いてあります。まだまだ曲数は少ないですが、これからもどんどん増やしていく予定ですので、お気に入りのアーティストがおりましたら、どうぞリクエスト下さい。可能な限り作るつもりです。
MIDIの部屋へ入る
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