新しい人の懸け橋

 B29爆撃機 男鹿本山に激突炎上

 

 太平洋戦争終了後、間もない昭和20年8月28日、サイパン島を離陸したB29爆撃機は悪天候の中、男鹿半島にさしかかった。

大館市花岡鉱山にいる米軍捕虜に食料や日用品を落下傘で投下するためだった。

「三機のB29が飛来、二機は真山と本山の間を通過したが、最後尾の一機が雲に入ったかと思った途端、ガツンと大きな音がした」と加茂青砂の住民の一人は事故の模様を語り、昨日のことのように覚えていた。

「地区の消防団長の命で捜索隊が組織され、提灯持参で山の斜面を登ったが日が暮れて雨で足場も悪く、その日は全員下山した・‥

 翌日、夜明けとともに地区総出の捜索が始まった。急な斜面を一時間かけて登った。機体が散乱する現場には黒こげの死体がいくつもころげていた。目をそむけたい惨状であった。」

 事故発生から12時間たった8月29日午前4時半、捜索隊は、炎上を免れた尾翼から両手を挙げ、青ざめた顔で出てきた若い米兵を発見した。ただ一人生存していたノーマン・H・マーティン軍曹(当時19歳)だった。他の塔乗員11名は全て死亡したのに、奇跡的に生き残っていたのだ。捜索隊は死体を俵に詰めて急斜面を下ろし、マーティン軍曹をいたわりながら加茂国民学校の宿直室に案内して休ませ、医師が手当てをした。

 マーティン氏の警護は憲兵隊にゆだねられ、9月2日秋田市から能代市に移され、迎えの米軍機で厚木基地へ向かう計画であったが、迎えの飛行機が8日にくることに決まった。その前夜、迎えに来た米兵たちと能代市の料亭で日米合同のパーティーが開かれた。 激突事故から19年後の昭和39年8月28日、男鹿本山の現場近くに男鹿市民たちが供養塔を建てた。以来、毎年欠かさず供養をしている。

 

マーティン少年兵のその後は

 

「あの少年兵は今、どうしているか知りたい…」と地元民のささやきが交わされるようになったのは、事故から40年の歳月が過ぎてからであった。秋田魁新報社や日米文化振興会、昭和町出身の門間大吉氏らの調査努力が実を結び、マーティン氏(63歳)が米国ルイジアナ州スプリングフィールドに在住していることが判明した。

 マーティン氏は昭和2年9月8日能代の東雲飛行場に迎えにきた米軍機で横田基地を経由して10日ぶりにサイパンに戻り、翌21年3月退役となった。その後結婚し、郷里ルイジアナの製紙工場などで技師として働き平成元年暮れに引退していた。

 

マーティン氏を男鹿に招待しよう

 

 男鹿ロータリークラブ(佐々木文平会長)が中心になり、マーティン氏を男鹿に招待しようという運動が始まったのは平成2年2月である。「当時の事実関係の確認と国際親善のため、マーティン氏夫妻を招き、事故現場に供養塔を建てるなど国際理解と親善、交流の一助としたい」と招待実行委員会(吉田金忠委員長)が結成され募金運動に入った。

マーティン氏夫妻の旅費と滞在費としては凡そ150万円を目標とした。

 

マーティン氏から便りが届く

 

「…気がついたら飛行機が炎上し、機関銃の火薬が炎となって燃えさかっていた。燃え尽きるのを待って、戦友の姿を捜し求めたものの、答えは全くなかった。その時の絶望感、孤独感…翌朝、山に登って来た人たちが私をどう扱ってくれるか、とても不安だった。でも、皆さんは非常に優しく、負傷していた私を左右から支えて下山した。そして校舎(注現、男鹿市立加茂青砂小)で皆さんが私の傷を手当てし、親切にしてくれた。特に忘れられないのは、いつも私と一緒にいてくれた老通訳。彼は父槻のようだった。・‥皆さんからいただいた心遣いは忘れられない。旅行費用をいつ用意できるかわからないが、事故現場と秋田市はいつか訪れてみたい。その日が早くくることを・・・。」と結んでいた。

 

 

マーティン夫妻が来県

45年ぶり命の恩人と再会

 

平成2年5月23日午前11時、夫妻は秋田空港に下り立った。男鹿の関係者始め当時の憲兵相沢清治氏、通訳石川美津氏(故人)の長男英一氏等の出迎えを受けた。夫妻は男鹿市長を表敬訪問した後、思い出の加茂青砂へ。11人の霊を慰める「平和の碑」のある加茂青砂小の校庭には80人の住民と星条旗を手にした同小児童19人が温かく夫妻を迎えた。事故当時、救助、捜索に加わった住民も多く、マーティン氏はその一人ひとりにし握手と抱擁を繰り返し、全身で感謝と再会の喜びを表わし、「みなさんへの感謝は言葉では言い尽せない‥・。」と謝辞を述べた。45年前のあの事故当日、残がいから這い出してきたマーティン少年兵を最初に発見した石川竹蔵さん(76歳)は「マーティン氏は髪も薄くなり、体つきも太くなったが、当時の面影は今も残っている。」と語った。

 翌24日、夫妻は自衛隊のヘリコプターで事故現場に花束を投下、事故現場付近での慰霊標除幕、男鹿市民文化会館での歓迎レセプションなどに臨んだ。

 来県以来、過密なスケジュールをこなし、感激の日々を過ごしたマーティン夫妻は5月26日秋田を離れた。

 

 日米間に新しい人の懸け橋を

 

 男鹿市ロータリークラブ員、澤木建彦氏はマーティン夫妻が本県に滞在中の通訳を買って出て世話に当たった。『涙と感激の日々』の結びの文に次のように述べている。

「今回の訪日は、二人にとって信じられない日々の連続だった。それは、日本人の心の温かさ、県民の心の優しさに接したためだった・‥確かに欧米諸国の人たちは、日本が古くから持ち続けている心の優しさを理解するのは難しいことかもしれない。だが、夫妻には身をもってハートを理解して頂いた。この意味で、私たちの招待計画は成功に終わったともいえよう。しかしこれで終わりにしてはいけないのではないか。国際理解と平和のため、何らかの形で日本の良さを世界の人たちに知ってもらう努力を続けなければならぬと思った。」と。

 秋田魁新報は同年5月24日付けの社説に、「日米間に新しい“人の懸け橋”を」と題して近年崩れかかっている日米間の「懸け橋」の課題を論じていた。