木造三階の校舎・その他----東由利町を歩く---- 三階建ての学校
いまにも折れそうな細長いはしごを手探りで一段ずつ上ると、三階に出た。古ぼけた畳が6枚、天井から裸電球の傘がぶら下っている。
由利郡東由利町の館合(たてあい)地区。小学校の校舎として、建物ができたのは1881年(明治14)10月のことだ。建築費の80円はすべて学区民の寄付でまかなわれたという。
木造三階建て。三重の塔のように、上層に行くほど小さくなる。一階には教室や教員室、当直室など、二階には教室があった。三階が何に使われていたか分からない。当時としてはハイカラさを誇った斬新な造形だったろう。
1910年(明治43)、新しい校舎ができて、建物は本来の使命を終えた。その後玉米(とうまい)村役場などに利用され、現在は一階部分が改装されて農協の購買店舗になっている。二階は資材置き場、三階に人が上がることはめったにない。
高橋タケヨさん(89)は一、二年生のときノート代りの石盤を入れたふろしきを背負い、弟や妹を連れて、三階建ての学校に通った。全校で30人余りの児童がいたという。 (朝日新聞 平成3年5月17日の記事から、一部抜粋)
明治新政府が、国家の重要課題として、日本全国の町や村の隅々にまで学校を設立し、すべての国民に教育を受けさせようと「学制」を公布したのは1872年(明治5)であった。しかし、秋田県でそれに基づく小学校の設立が本格的に始まったのは公布後2年経った明治7年からである。
前頁から上掲のような設立伺いが出され「洋風三階建ての学校」の前身はこうして誕生した。
「玉米小学校百年沿革史」によれば、明治6年の児童数は48名、校名を「舘前学校」として開設され、小松仁平宅を仮校舎にしたとある。
1879年(明治12)、政府は「学制」を廃して「教育令」を公布、翌13年には改正を加え、義務年限を延長して最低3年とした。このようなとき、村の先覚達は教育の充実発展を考えて「三階建ての校舎」を設計したものと思われる。
1881年(明治14)10月、「洋風三階建て校舎」完成、落成開校式を盛大に催した。
@学校敷地174坪2合 A校舎面積74坪8合。
設計者、建築請負業者等の記録は残っていないが、校舎建築費はすべて学区民の寄付でまかなわれ、費用は金80円と記載されている。その後、明治34年に敷地380坪を拡張しているが、児童数の増加で手狭になって新校舎の建築が必要となった。
わが国音楽教育の父といわれる小松耕輔(1884〜1966)はこの地に生まれ、明治26年3月、「三階建ての学校」を卒業している。(「秋田の先覚」4 325頁)
小松耕輔の末弟清は明治44年の卒業生だが当時の思い出を「玉米百年 創立記念誌」に寄せている。
「・・・・私は小学校に普通より一年早く入学した。他の子供と同じように学校に通いたくて、村長をしていた父の後にくっついて役場に行き父の事務机の脚の中にもぐって学校へ行ったつもりになっていた。そのとき三階建ての役場が半分学校の教室になっていたのかどうか記憶がはっきりしないが・・・その後で新しい学校が出来たのだと思うが、学校が狭くなって、私の家の二階が臨時の教室になり、そこへ冬になると雪ぐつをはいて子供たちが集まり、帰るのを見ると、わが家に居たきりの自分をつまらなく思った。
学校に初めてオルガンが来て、私の兄耕輔がそれを弾いたことも、白い鍵盤といっしよに思い出す・・・・。」小松耕輔、三樹三、平五郎、清の四兄弟顕彰の音楽碑は昭和53年秋、この地に建った。
「三階建ての学校」の竣工からおよそ百年が経っている。
※編者(Mick)より 1998年秋、惜しまれつつも「三階建ての校舎」は取り壊された。所有権が絡んで様々な問題をはらみ、結局取り壊すことが最善の策となったようだ。東由利町の文化財に指定されてもおかしくない建造物であったが、それもかなわず残念至極である。これでまた一つ古き良き東由利・玉米の風景が失われたのである。
「音 楽 碑」
昭和53年10月4日建立
碑文 「昭和五一年一二月、東由利町議会は小松音楽兄弟の顕彰の機を興す。耕輔明治一七年生を亨く。此地に文化の未だし頃ミューズの神に誘われ、我国音楽開花の人と成るは、天性の性か、山水の清らかなるによるか。弟三樹三はバイオリニスト、平五郎は指揮と作曲に才を現し、清はフランス文学と音楽教育に貢献す。人系の譜と謂うべし。碑を建て後進発奮の一助とす」
撰 小松栄男
雪崩遭難學童供養碑
「三階建ての学校」は、明治43年に村役場となり、新校舎が丘の上に建ち(現八塩小学校の地)移転した。ほどなく明治が終り大正となり、大正2年創立40周年を祝った。
村の小学校の中で高等科在籍の児童は遠路を厭わず、この学校へ通学していた。
雪崩の爲め 四名壓死
本荘街道にて
由利郡玉米村舘合友治孫小松東一郎(11)同村菊地良之助(14)同妹菊地タミノ(12)同春吉甥菊地留蔵(15)の四名は同村佐藤秀三郎、小松修太郎、菊地良三郎等の学友と共に去る十四日午前八時半頃舘合小學校へ登校すべく檜倉山と稱する本荘街道を差掛りしに北方高さ三間位の處より不意に音響を立て長さ十丈位の大雪崩落下し来り七名は逃げる暇もなく板戸川なる小川へ雪と共に轉落し秀三郎、修太郎、良三郎の三名は運よくも埋まりたる雪を破り村へ報告せるので村民多數来り掘りたるが遂に前記の四名は雪の如く冷たくなり此世のものに非ざるより家人は泣く泣く引取れりと(大正7年1月20日・秋田さきがけ新報記事から、一部書き替え)
「玉米小学校百年沿革史」(昭和49年発行)に次の記述がある。
・大正7年1月14日 板戸、境部落兒童7名登校の途中雪崩に遭ひ、うち4名犠牲となる。
・大正7年9月14日 雪崩遭難兒童をいたむ石碑除幕式を挙行す。
また、同記念誌に次の解説が述べられている。「大正7年1月14日、板戸、境部落児童7名登校の途中雪崩の難に遭う。脱出蘇生せるもの高二佐藤秀太郎、高一小松修太郎、発掘蘇生せるもの尋二菊地良三郎、落命せるもの高二菊地留蔵、尋六菊地良之助、尋四小松東一郎、同菊地タミノ。」
1月16日、稀有の大吹雪、温度零下6度遭難兒童葬儀につき職員兒童役場員村民一同會葬す。
9月14日、雪崩遭難兒童記念碑除幕式を舉行す。建設費は全部寄附金を以て支出せり。
この後、毎年1月14日を遭難記念日として、記念式を行い、(50回忌)昭和44年まで続けられてきた。
記念誌に、この事故から奇跡的に脱出した小松修太郎氏(故人)の「思い出」が掲載されている。小松氏は兵役を終えた後、秋田市に職を得、数年前に他界された。
「・・・・私が一番思い出すのは、高等一年生の時の1月14日の吹雪の朝に、学友と一緒に膝上までもある雪路を通学の途中雪なだれの遭難に会ったことです。7、8名の学友のうち、私と佐藤秀太郎君の二人だけ命払いして、他の学友は雪なだれの犠牲になったもので、あの小さい部落で一挙に数名の死者の出たことなどは今なお夢のようです。・・・・・。」
(大正7年度卒業生)
雪崩遭難学童供養碑 現八塩小学校校庭東側 大正7年9月14日建立碑文
「大正七年一月十四日境坂戸兩部落兒童七名意氣軒昂前後相擁シテ登校ノ途二上ル比日寒気凜冽風雪殊二甚シク往来殆ンド絶ユカクテ一進一退漸クニシテ渓谷ノ一角ニ達スルヤ俄然崩雪シテ一同忽チ懸崖ノ渓流二沒セラル高一小松修太郎高二佐蒔秀三郎幸二九死二一生ヲ得徒手友ヲ救ハントス而モ聲嗄レ體凍ヘ力亦竭キタリ因リテ辛ウジテ走リ變ヲ村民二報ズ衆急二赴キシモ高二菊地留蔵尋六菊地良之助尋四小松東一郎同菊地タミの四名ハ既二絶命シテ施スニ術ナク纔二尋二菊地良三郎ノ蘇生ヲ得タルノミ其壯烈悲慘洵二言語二絶ス噫勇敢ナル七名ガ篤學非凡ハ眞二世ノ範トナスベキモ死者ノ不幸ハ長ヘニ忘ルベカラズ 大正七年九月十四日其遺族並二舘合小學校職員其ノ他有志相謀リ當時ノ概況ヲ記シテ記念スト爾云」 秋田縣由利郡長從六位勲六等戸崎順治撰並書
同じ日のさきがけ紙の記事である。
○ 中通學校の壯舉 兎三頭捕獲
市立中通尋常高等小學校にては昨日午前七時より兎狩を舉行せるが連日の吹雪も晴れ斯くしたる壯舉には持って来いと云ふ天気具合にて尋常四年以上の兒童數百名は脚絆草鞋掛けと云ふ出立にて手に手に棍棒を持參し意気旺盛に出校し目ざし場所たる天徳寺山に赴けるが數尺の雪中をも物ともせず一頭現はる毎に鬨の聲を舉げ追ひ廻し遂三頭を捕獲し正午頃帰校せるが冬の野外運動としてはよい心付なり
教 育 碑
旧袖山小学校校庭
「畠山三郎君頒徳碑」
碑文
「君慶応三年袖山に生る。里正畠山三郎の後を襲い三郎と改む。資性頴達、難に当たりて屈せず。而して専ら力を育英に尽くす。袖山の地形僻橄子弟の教養を欠く。君率先私財を投じ舘合小学校袖山分教場を設け、後玉米村に寄す。更に教育の不備を嘆き、苦闘数年、明治三五年袖山尋常小学校と為す。当時巨費を投じ今日の盛を致す皆君の力なり。君村会議員・学務委員・玉米村長・玉米村農会長・郡会議員と為り、明治四四年衆に推され県議員と為り、声挙蔚然衆益益展望す。赤十字社に列し有効社員を佩び有効章を親授せらる。大正一一年教育事業の功績に依り、賞勲局総裁より褒状を授けられ、大正・昭和即位大典の佳節に饌を賜い大礼紀念章を受く。君、教育・産業・自治・政治を以て念と為し、人に接して温恕人皆親しみて終始変わらず、其志偉丈夫と謂うべきなり。昭和八年没す。享年六七歳、頃者郷人有志胥謀り、其功績を伝うと尓云う」昭和十一年丙子十一月三日寄付者
教 育 碑
旧玉米中学校グラウンド跡(現株式会社ルビコン グランド内)
「玉米中学校懐舊之碑」
碑文
「玉米中学校昭和二十二年二開校シ昭和四十四年廃校トナル 卒業生一千九百余名ヲ数エ郷土ヲ興シ且ツ広ク雄飛ス 此ノ間校長加藤和一郎 菊地一男 佐藤松之助 進藤新四代タリ 此ノ地上ノ岱二学会ヲ建テシハ菊地校長ノトキナリ 師弟共二校地ヲ拓キ材ヲ運ビ建設ノ一助トス 新教育ノ気運愈々熾ンナリキ 松籟二舊ヲ懐ヒ資ヲ相寄セテ此ノ碑ヲ建ツ」
平成三年五月
八十五歳 天嶺宗一書 小松栄男撰