31.伊予のトッポ話

 

 余兵衛さんが村へ帰る途中に大勢の人だかりに出あいました。何が始まっているか見ようと思ったが人垣で中へ入れない。そこで余兵衛さんは左の眼玉をくりぬくと、それをコウモリ傘の先へつけて上げると、よく見えます。人たかりの中は闘犬をやっているのです。そのかんじんな勝負の決まるところで、トンビが眼玉をさらって行ったから大変、あわてた余兵衛は追いかけて行き、とうとう坂の上でようやく眼玉を取りかえしましたが、あまりあわてて眼玉をはめたので、裏返しに眼をはめてしまった。すると驚くことにその日から自分の腹の中がよく見えるのです。見えるにつれてますます驚いた、腹の中ってこんなに汚ないものか、と。-----これは伊予で有名なユーモアのトッポ話の典型的な荒筋であります。私たちもこの余兵衛の裏返した左の眼のように、自分の腹の中が常に見える、つまり反省されていたら、夫婦生活はすべて円満にゆくものでございましよう。

 

32.愛とゲーテ

 愛の詩人であるゲーテはいみじくも言っています。われわれはどこから生まれて来たか

愛から

われわれはいかにして滅ぶか

愛なきため

われわれは何によって自己に打ち克つか

愛によって

われわれも愛を見出し得るか

愛によって

長い間泣かずに済むのは何によるか

愛による

われわれをたえず結びつけるのは何か

愛である

 

 これはシュタイン夫人へ与えた有名な詩であります。人生はすべては愛によって生かされ、育てられるものであるとゲーテは力説しています。そして「処世のおきて」と題する短詩では

 

気持よい生活を作ろうと思ったら

済んだことをくよくよせめこと

滅多なことに腹を立てぬこと

とりわけ、人を憎まぬこと

未来を神にまかせること

 

まことに処世とはこの詩のとおりでありましょう.

 

そしてもう一つ「役に立たぬ人とはだれか。命令することも、服従することもできぬ者」というゲーテの言葉に耳を傾けてみたいと思います。

 

 

33.晩婚に幸あれ

 早婚で結婚のエネルギーを消耗し尽すと、中年になって、第二の青春などと騒ぎ立てるのでございます。そこへいくと、井島君は大器晩成型でございますから、そういう懸念はございません。井島君がなぜ今日まで結婚を拒否して来たかは、それは人生建設の基礎があまりにも大きく、われわれ第三者の想像も及ばないものと解するほかはございますまい。その上に建設される第二の人生は、まことに素晴しいものだと信じます。そのご多幸を心から祝福する次第でごぎいます。

 

34.気の毒な人になるな

 ベン・ティレットといえばイギリス労働党の領袖としてよく知られていますが、その人が「完全な婦人を見つけるまで結婚しないという男性は気の毒なものだし、そんな婦人を見つけた男性がいたらなおさら気の毒だ」ということを言っています。幸いわが池田君は、私たちにさんざん気をもませましたが、ベン・ティレットのいう「気の毒な人」になってくれなくてよかった、と思います。こう申しますと、新婦さんにははなはだ失礼のように受取られますが、お互いに不完全なればこそ夫婦となって完成するのでございます。

 

35. 若い再婚者を祝う

"あつものにこりてなますをふく"といいますが、はじめのあつい汁で舌をやけどした人は、それにこりて独身生活を楽しもうとします。"二度の結婚は愚行であり、三度の結婚は狂気の沙汰"といった人がありますが、これは一杯のあつものにこりて、ついに人生の幸福を取り逃した人です。おいしくあつものをいただいた人が、さらにおいしいあつものをいただいて人生の幸福を得ようと考えるのが当然です。彼には十分、しのぶさんを幸福にする自信があるわけで、しのぶさんにもそれに十分応えられる確信があります。"愛は幸運の財布、与えれば与えるほど、中身が増す"といいます。本日よりお二人の幸運の財布をうんとふくらませてください。

 

36.中年の再婚を祝う

 空白十年とひと口に申しますが、その間の苦労は大変なものだったと思います。そのご苦労は、あの島崎藤村がヤモメになって自分の子供を主題とした作品に現わされていることと全く同じだと思います。藤村はその作品の中で、子供を叱る父親の役と、それをなだめる母親の役の双方を自分はやらねばならなかったから、大変な苦労だった、という意味のことを作品の主人公をして語らせていますが、山本さんも同じ道を歩まれたのであります。そのご苦労はおひとりの空白がつづく限り、お子さんが成人されても、決して解消するものではございません。それがこのたびの良縁を得られたことは、何としても人生の常態にかえった大きな喜びでございます。


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