「青い目の人形」異聞  横浜人形の家を訪ねて 菊地昭男

 

 (ブロッソンと市松人形)

 横手市の皆様へ

「デトロイト公立児童博物館はデトロイトと横手との新たな友情として、ミス秋田と仲間になるミス横手雪子を受領出来ることを大変嬉しく恩います。私たちは、友情の象徴という特徴ある、ミス秋田、ミス横手を「平和の架け橋」と題する展示会を開催して披露するつもりです。子供たちはきっとこの贈り物に感謝を申し上げ、手紙や絵の交換を通して横手市の子供たちと友達になりたいと願っていることでしょう。子供どうしで、この友情を保ち続けるためにはどの様にしたら出来るか、どうか教えて下さい。

       デトロイト公立児童博物館館長ピートライス パーソンズ」

         1990年「横手雪子」を受領した礼状

 

はじめに

 

横浜市中区山下町山下公園通りの街並みの中、三角屋根のユニークな外観を見せ、美しくたたずむ「横浜人形の家」の「親善コーナー」に仲良く並ぶ二体の人形がある。アメリカ生まれの青い目をした「ブロッソン」と、おかっぱ頭の市松人形である。昭和が始まると同時に、親善使節として来日した青い目の人形と、彼女の友達として、ともに昭和を生きてきた市松人形である。ブロッソンは、日米友好親善使節として昭和二年三月、横浜市本町小学校に配置され、戦争の危機をくぐり抜けてきた全国にも数少ない貴重な青い目の人形だ。

 

昭和2年(1927)、はるばるアメリカから日本の少年少女と友好を深めるため、一万三千体近くの青い目の人形が送られてきた。人形を受けとった日本の学童たちは一人一銭を拠出して、各道府県六大都市、外地(樺太、朝鮮、台湾、関東州)ごとに答礼人形を一体ずつ作り、その年のクリスマスに間に合うようアメリカの少年少女のもとへ届けた。数は58体だったが粋をこらした市松人形である・・。いま、この事実があらためて見直されてきている。

 

○童謡「青い目の人形」の思い出

 

昭和2年1月、横浜港に入港したサイベリア丸には、三百体の親善人形(青い目の人形)が乗船していた。「人形計画」の第一陣であった。日本に無事者いた人形たちは「人形を迎える歌」(高野辰之作詞)の大合唱の中を下船した。

 一、海のあちらの友だちの まことの心のこもってる

   かわいいかわいい人形さん あなたをみんなで迎えます

 二、波をはるばる渡り来て ここまでおいでの人形さん

   さびしいようには いたしません お国のつもりでいらっしやい

 三、顔も心もおんなしに やさしいあなたを誰がまあ

   ほんとのいもうと弟と思わぬものが ありましょう

 青い目の人形たちは旅立ちのとき「ドール・ソング」が流れる中、盛大な歓送を受け、日本に着いては「人形を迎える歌」で迎えられたのであった。全国で熱狂的に歌われた「人形を迎える歌」は大戦を挟む歴史の中に忘れ去られてしまい、青い目の人形といえば、野口雨情作詞の童謡「青い目の人形」のメロディーを思い出し、友好親善人形を歓迎した童謡のようになってしまった。雨情の「青い目の人形」が作られたのは友好親善人形を迎える五年前、大正10年(1921)12月のことである。自由主義が唱えられ、数多くの児童文化が興隆した大正デモクラシーの時代、叙情性に富み子供の感性を育もうとする童話や童謡が大正七年の児童雑誌「赤い鳥」「おとぎの世界」「子供雑誌」「金の船」などに登場し、北原白秋、西条八十そして野口雨情などが、誌上でその作風を競い合った頃、雨情が「金の船」(後に「金の星」と改題)に発表したもの。だった。

児童文化運動は子供たちの玩具の世界にも及び、当時の主流はブリキ製のオモチャであったが、セルロイドが登場してきた。とりわけ人気のあったのはセルロイドのキューピー人形だった。雨情は自分の長女がキューピー人形を愛しく抱いて遊んでいるのを見て心をうたれ、この歌を作ったといわれている。雨情もこの時点では親善人形の来日を予期していなかったのではなかろうか。仙北郡六郷小学校で、昭和63年6月1日、低学年の児童を対象に、人形まつり「メリーちゃんと遊ぼう」が開かれた。この日の催しは遠く昭和2年5月28日、同小学校で開かれた「米国人形歓迎合」の模様を再現して、児童たちが日ごろ大切にしている人形といっしょにメリーちゃんを正面に飾り、「青い目の人形」をみんなで歌った後、当時小学生だった山田ウタさん、井関ツガさんの二人が「人形を迎える歌」を児童たちに披露した。60年の歳月を経てなお二人は覚えていたのであった。

 

(ミスアメリカ)

○秋田県が迎えた「青い目の人形」

青い目の人形の第一陣300体が昭和2年1月、横浜港へ到着したのを皮きりに、第二陣-のメリン丸に1477体、前橋丸813体、らいん丸に1112体、そしてあんぐる丸で788体。連日のように人形たちが横浜、神戸港へ到着した。アメリカを代表するミス・アメリカと各州代表人形48体を乗せた鳥羽丸は太平洋の荒天に逢い、3月14日になってやっと横浜に入港した。合計12,729体だった。代表人形48体は東宮御所へ参上した後、人形の家に住むことになった。他の全部は文部省の案により全国の幼稚園、小学校へと別れて行った。本県が迎えた青い目の人形は145体といわれている。県では4月15日から12日間、秋田図書館を会場にして人形展覧会を開催したが、参観者が多く2日間期日を延長して4万人近い人をさばいた、と「秋田図書館報第2号(昭和2年11月刊)」に報告されている。その中に「…こういう旅行免状を持った青い目の人形さんが193体(あとに10体)秋田県内の小学校及び幼稚園にお客様として、はるばる海を渡ってまいりました…」とある。渋沢栄一資料には、秋田県の配布割当ては190体となっている。童話作家で「青い目の人形は」の著者武田英子は同書の中に次のように記述している。「…輸送中の破損などにそなえて、交換用に何体かをとりわけておいたらしい。分配完了後、残った人形を関係者で分けあって、個人の家庭に納まったものもあったというが、その数もさだかでない…」と。文部省は、事前に分配規定をきめて各道府県に通達していた。分配校の資格は、道府県の師範学校付属の小学校と幼稚園、道府県庁の所在地や主要都市、外国人が多く居住する地方の小学校・幼稚園、道府県知事が適当と認めた小学校・幼稚園というものだった。

本県ではどのようにして分配校を決めたのだろうか。昭和2年度、本県の幼稚園数は11園。小学校数が379校だったと「文部省年報」にある。分配にかかわる資料が残っていないので、人形数とともに謎である。

 

○郷土の歓迎会

秋田県主催の歓迎合は、前述の「図書館報」にある。全人形を秋田図書館に展示し盛大に行われた。県内で運良く「青い目の人形しを手にした幼稚園、小学校では趣向を凝らして歓迎会を開き、あたたかく人形を迎えたが、人形を受領出来なかった学校の児童たちの失望、落胆は大きかった。学校の当時の沿革誌には「校長が県の図書館に出向き、人形を受領してきて○月○日、人形歓迎会を開く…」の記述が多い。

 

・由利松ケ崎小(4月26日)、平鹿十文字小(5月12日)、河辺日新小(5月16日)、大館女子小(5月18日)、師範附属小(5月23日)、由利矢島小(5月25日)、仙北生保内小(5月27日)、雄勝稲庭小(同前)、仙北大郷小(5月28日)等、4月から5月にかけて行われている。歓迎会は学校内の行事ではなく、地域全体のお祭りのような規模で行われ、地域の人々も参加して、地元業者が紅白のお祝い菓子を児童に配ったり、人形ケース、写真などを寄付したところもあった。他県の例には記念絵葉書を作製した学校もある。

 

○「青い目の人形」の出身地

 

合計して13,000体近くの人形たちの出身地はどこだろう。「人形計画」とよばれた運動がアメリカ全土に広まったとき、アメリカの世界児童親善会は「友情表示人形」という衣装なしの裸の人形をジェニウィン社、エファンビー社、ホースマン社に発注し1体3ドルで斡旋した。三社の人形は背丈1フィート5インチ、手足が動き、「ママァ」と声を出す装置を内蔵し、目を開閉するしくみのものだった。「人形計画」の趣旨に賛同した多くの市民たちは、友情表示人形を購入、それぞれ手製の衣装を着せた。日本に送られた人形のなかには、この「友情表示人形」のほかに、ドイツ製のマークのものや、各家庭や個人の愛玩品だったらしい人形も混じっていたが青い目の人形の大多数は前記三社の「友情表示人形」である。13,000体のうち、その八割が東部各州の出身で、多い順にあげると、オハイオ(2283体)、ペンシルバニア(1935体)、ニューヨーク(1436体)、マサチュウセッツ(966体)、ニュージャージー(671体)、コネチカット(592体)、インデアナ(519体)、カリフォルニア(461体)、イリノイ(388体)、ミズーリ(302体)、ミシガン(279体)、メイン(195体)、ミネソタ(195体)等となっている。本県で生き残っていた大館城南小のエリーナと本荘松ヶ崎小のラッファテーはインデアナ州の出身で、由利金浦小のジャネットはペンシルバニア州出身であることが持参している旅行免状から判っている。ほかに見つかっている7体の出身地は不明である。旅行免状には、それぞれ固有の番号が打たれているが、エリーナは11093で、愛媛県で見つかったフランセッタは12565番、エリーナと同じインデアナ州出身である。インデアナ州出身の人形数は519体とあるから番号は州ごとの一連番号ではないらしい。島根県のキャサリンは48129番という。これらの番号をみていると、日本に送られてきた青い目の人形数は13,000体よりもっと多かったのではないかと思われてくる。

 

○「青い目の人形」大歓迎会

 

(東京・日本青年会館で開かれた「友情人形」歓迎式典)

昭和2年3月3日雛祭りの日、東京青山の日本青年館を会場に「青い目の人形」大歓迎会が開かれた。東京、横浜などの児童代表をはじめ、日米の関係者約二千人が集い盛大をきわめた。日本側代表の渋沢栄一は歓迎会のあと、「龍門雑誌」(第462号・昭2年刊)の巻頭に「米国より人形を贈られて」と題して長文を回顧談の形で載せた。その最終章を次に引用する。

「会の席上で私は非常に愉快に思ったので心に感じたことをそのまま述べました。即ち雛祭りを忘れるではないが、男の子としては記憶しない。殊に十歳以上に成れば女のすることとは全然別になる。ところが昨日は本当に子供に返ったように嬉しかったので、ああした話が出たのであります。真に米国の行為は、親切、公平で華美でなく、実際的であります。そのうえ、人形の数を沢山送られたから、各地方へ配布出来るのはこれらの人々のよく行き届いた心配からであります。しかも人形の贈り主が子供であって、送る手続に注意が行届き、旅行免状を持つとか、手紙をもつとか、着替えや、玩具まで持って来たのは実に用意周到であります。子供はそれらを目に見、心に感じて、早くから日米親善を念とするに至るであろう。就中当日は米国大使も出席されて、サンタクロースの例を引いたおもしろい話を、子供に判るようにせられ、非常に興味を覚えました。実際子供の時の深い感触は忘れ難いもので「三つ子の魂百までも」という諺もあり、これを文雅にして「竹馬の幼心の一節は杖つくまでも忘れざりけり」というのは小出某という人の和歌であるが、私の一身上からもそれは間違いなく証拠立てられる。(略)」

この回顧談の終わりに渋沢翁は「青い目の人形」に対する返礼について考えなければと述べている。

 

○返礼に日本人形を贈ろう

 

日本代表・ミス大日本(倭日出子)

前記の渋沢翁談話にあったように、日本からアメリカのクリスマスまで日本人形を返礼として贈ることになった。費用はおよそ26,900円ほど。これを人形受領校の女児250万人にひとり1銭ずつ拠出してもらい日本人形58体を作製する計画だった。本県の募金割当は475円(渋沢資料)となっているが目標額に達したかどうか不明である。当時の経済不況のなか、1銭といっても児童たちには大金だったかもしれない。人形1体が付属品を含めて350円という高価な人形が東京や京都の人形師たちによって製作が始められた。クリスマスに間に合わせなければならない。夜を日につぎ製作は進められた。人形師たちは技術の粋を凝らし、精根込めて「答礼人形」を仕上げた。58体のうち、皇室の御下賜金で製作された日本代表人形は「倭日出子」(ミス大日本)と名づけられた。各道府県代表の人形たちはそれぞれ固有の名前を(青森は青森睦子、新潟は新潟雪子のように)持ったが、アメリカ人にはわかりにくいというので、「ミス青森、ミス新潟」と台座のプレートに名前が刻まれた。秋風の立ち始める頃、秋田県代表の「ミス秋田」が郷土に豪華絢燗な姿を見せた。人形師秀徳の作という。さっそく「秋田蕗子」と名づけられ、県内を一巡して児童たちに別れを告げなければならない。そしてアメリカ出立前の大歓送会に東京へもどらなければならない忙しい日程だった。「昭和2年10月12日・13日。アメリカへの人形答礼使に対する県北代表送別会を開く。丸山視学臨席。本校の外、男子絞、花岡、扇田、成章、岩野目、摩当、下川沿、大館幼稚園等の児童及び父兄多数参観す。」と大館女子小(現在大館城南小)の学校沿革誌に記されている。この後、県南部、中央部などで同じ趣旨の会が開催されたものと思う。手元にその記録はない。県では、青い目の人形受領校で募金に協力した学校に対して、「秋田蕗子」の写真一枚を配布した。「人形を送る歌」(高野辰之作詞、島崎赤太郎作曲)を歌い、「秋田蕗子」の前途の無事、多幸を祈った。

 一、此の日の国から星の国へ 今日を門出の人形よすめるまなこを うるほさず 眉をひらきて さらば行け

 二、歓び迎えて出す手に その手をのべよ 人形よ まことをこむる 手と手には 笑の花こそ 常にさけ

 三、我らが心を心とし さらばとく行け 人形よ 波の十日を過ごさなば いたる所に 春を見ん

秋田蕗子は大忙しで東京に帰り、全国から集まってきた代表人形たちと秋雨煙る青山の日本青年館の大歓送会に臨んだ。そして一週間後の11月10日、横浜出航の天洋丸に乗り一路アメリカヘ向かった。サンフランシスコ上陸からアメリカ本土各地の歓迎攻めに合いながらミシガン州デトロイト児童博物館に永住の所を得たのである。

 

○帰って来た「秋田蕗子」

 

横浜港を出港してから62年が過ぎた。日本国際文化協会、朝日新聞、そごう美術館主催。文部省、外務省、アメリカ大使館、米国日米協会連合の後援で、答礼人形たちをアメリカから帰国させ、日本に生き残っている青い目の人形たちと再会させようという「お帰りなさい答礼人形。青い目の人形展」が企画された。昭和63年(1988)のことである。この展覧会は日本全国の幾つかの都市を巡回して開かれ、東北以北では同年7月8日から13日まで、札幌市のデパートを会場に開催された。アメリカで生存が確認されている答礼人形は58体中25体あるという。その25体のうち19体がこの企画に加わり帰国した。「秋田蕗子」がそのなかの一員として62年ぶりに祖国の土を踏んだ。答礼人形を迎える「青い目の人形」は全国に約250体みつかっているといわれるが、会場等の関係で、本県からは松ヶ崎小の人形ララァテーが全国32体のうちの一つに選ばれ、秋田蕗子と再会を果たした。

○取り違えられた人形の着物

 

アメリカからはるばる62年ぶりに帰国した19体の人形たちは、横浜に着いてすぐ人形師たちによって身繕いされた。そのときふと奇妙なことが発見されて関係者をびっくりさせた。コロラド州デンバーから来た「ミス新潟」の振り柚に横浜市の市章がついており、ミズリー州カンザスシティーで「ミス静岡」とされていた人形の衣装に神戸市の市章がみつかった。この二つ、人形の衣装の市章どおりとすれば、「ミス新潟」は「ミス横浜」であり「ミス静岡」は「ミス神戸」であるということになってしまう。この出来事に驚いて関係者たちが昭和2年当時の資料を探したところ、昭和4年日付けの古い手紙を見つけた。手紙には…「…日本人形がサンフランシスコに到着して以来、全米巡回を終わるまで、絶えず荷解き、荷造りを繰り返した結果、混乱が生じた。名札をつけた台座を外したが、人形そのものには名前が記されておらず、正確な名前をつかめなくて困っている。日本で撮影した写真と照合したが、少なくとも二、三体は確認がとれない。この真相を日本の皆様に広く報告すべきか否か、概略的声明を出すほうが良いのではないかと愚考中…。ミス神戸に損傷が生じた。しかし衣装は良好な状態なので、ひどく染めのあせた別の人形に譲ってもらった。」この手紙は米国側の責任者から文部省の係官にきたものであった。

 

○「秋田蕗子」と会う

 

里帰りしたミス秋田

昭和63年7月12日、札幌市そごうデパートの会場の一画、蕗子はガラスのケースに収まっていた。近づいてみると、衣装はかなり褪せ、顔や手の化粧もあちこちうすれ、頭髪には白髪が数本光って見えた。台座には名前が「ミス・AKITA」とはっきり刻まれていた。これが60年以上前に渡米した人形だろうかと思うほどあどけなく、しっかりとして見えた。この日のため用意してあった写真一葉(県内の人形受領校に配られた記念写真の写し)を取り出して実物と対比してみて驚いた。持参した写真の蕗子と眼前の実物は別の人形ではないか。衣装が全く違う。胸の紋章も違っていることが一見してわかった。大館女子小学校の歓送金(昭和2・10・12)の会場風景を写した写真の壇上に飾られてある人形は「秋田蕗子」の旅立ちの姿である。人形受領校に記念に配られた写真と同じである。62年ぶりに里帰りした「秋田蕗子」となぜ違うのだろうか。

出発時のミス秋田(秋田蕗子)

〇58年ぶりに聞いた人形の声

 

昭和60年(1985)3月、マサチュウセッツ州ボストン博物館に保存されていた答礼人形「ミス京都府」が60年ぶりに里帰りした。デュカス州知事が付添い、損傷の修繕の為に帰国したのだった。東京浅草の人形店、山田徳兵衛氏は「ミス京都府」修復の記事を日本経済新聞に寄せた(昭和61・1・11)…ミス京都府を細部にわたり点検したところ、実に致命的ともいえる重傷を負っているのに驚かされた。特に頭(かしら)はむざんで、一度半分に割られたものを接着剤(分析の結果、にかわと判明した)であわてて接合させたのだろうか、耳もとあたりもひどくくずれたまま、頭髪とともに乱雑にはりつけてあった。(中略)私は主治医として彼女のどこから手をつけてよいのやら、しばし頭をかかえてしまったほどである。しかし、そんな私を決意させるようなことが起こった。それは着物を脱がせた彼女の胴を手で押したところ、なんとその中に仕込まれていた笛が「まあ-まあー」と突然鳴ったことだった。

昔の市松人形は通称「泣き」と呼ばれてこのように胴に笛を入れたものだ。着物の上からでは、たとえ押してもなかなか笛は鳴りにくい。たぶん彼女がボストンの博物館の片隅にたたずんでいた長い歳月、アメリカ人のだれ一人としてこの声を聞いたものはなかったろう。それだけに私の耳にはその声が、まるで58年間の沈黙を破って、日本語で苦痛と助けを訴えているように聞こえたのである…。(略)「ミス京都府」は関係者の努力で見事回復し、翌年2月17日、皇太子(現天皇)ご夫妻、マンスフィールド米大使立会いのもと、「嫁ぎ先」であるボストン博物館へ帰って行った。

 

○秋田蕗子の里帰り実現を

 

横手ユネスコ協会は、平成2年10月、県内に生き残っている「青い目の人形」9体を一堂に集めて展示会を開いた。そして多くの人々の協賛を得て、秋田蕗子の妹分に「横手雪子しを製作し蕗子のもとに送った、また、同協会では蕗子の里帰り実現のためアメリカ領事館や地元新聞社などに協力をもとめて実現運動を強力に進めたが、デトロイト博物館の回答は次のようなものだった。「1988(昭和63)年開催の「青い目の人形交流展に参加して、日本国中を半年間回っているうちに秋田蕗子の体に大きな損傷が起こり、かろうじてデトロイトに帰ってきた。完全に修復しないと里帰りはとてもおぼっかない。」

 里帰りを果たした人形は、前述の「ミス京都府」の他「ミス広島」、「ミス静岡」の3体といわれているが、「ミス高知」の里帰りも実現しそうだと報じられている。「ミス愛媛」は不幸にも生き残っていないことを知って愛媛県民は二代目の「ミス愛媛」をミシシッピー州に贈った。

平成2年、横手ユネスコ協会がアメリカ・デトロイト市の児童博物館に友好親善使節として贈った日本人形の「横手雪子」

※拙者「青い目の人形」(秋田魁新報社刊・平成6)参照

 

「青い目の人形 アメリカ〜秋田友好親善記 / 菊地昭男/編著」
「秋田魁新報/さきがけブックス」