ペットの死
先日私の塾で、今までほとんど休んだことのない子が、突然休んでしまった。「どうしたのかな」と思い、アルバイトで来てくれているその子の姉に事情を聞いてみた。すると、その子の家で最近飼い始めたインコが、不慮の事故で死んでしまったというのだった。しかもその休んだ子が、ようやく慣れてきたインコと一緒にうたた寝をしてしまい、どうやら知らぬ間に押しつぶしてしまったようなのだ。起きてみたらかわいがっていたインコが死んでいた・・。これは中学二年生の女の子には相当なショックだったに違いない。ましてその子には姉がもう一人いて、そのお姉さんも妹を責めたらしい。ダブルショックでその子はとても塾に来られる精神状態ではなかったのだ。
私にも似たような体験がある。今から4年くらい前、我が家で生まれて数ヶ月の子猫を、自分の車で轢いてしまったのだ。その日私はわざわざ無理して行かなくてもいいところに出かけ、用が済んだあと急いで自宅へ戻ってきて、塾の支度にかからなければと思い、気がせっていた。だからいつもは慎重にする車庫入れも、どこか不注意であったのであろう、車庫の中にいて私を待っていた子猫に気づかず、バックした車で轢いてしまったのだ・・・・。今こうして書いていても辛くなるほどの出来事で、その時の子猫の叫び声は、おそらく一生私の耳から離れることはないだろうと思う。すぐさまペット病院にかつぎ込んだが、折しもちょうど初雪が降った日で、道路は渋滞、ケガをしたのは人間ではなかったので、救急車も使えず、診察台の上にその子猫が乗ったのは、事故から30分も過ぎていただろう。全身痙攣しながらも、かろうじて命の灯火をつなぎ続けた子猫は、獣医の懸命の手当の甲斐もなく、また私達家族の祈りも通じることなく、そこで死んでしまった・・・。私は夢中で祈ったものだ。「自分の命の何年かをあげるから、どうか生きてくれ!」と。それほど自分の責任を痛感したし、猫とはいえ、生ある者の死にゆく様を見ているのが辛かったのである。
私はこの出来事から、それまで止めていた酒も飲むようになってしまった。半年くらい精神的に落ち込んでいた。そしてようやく立ち直りつつあるころ、我が子を車で轢いて死に至らせてしまった母親のニュースを聞いた。
もちろん、猫と人間の命の重さは比べようがないと思う。そのお母さんはどれほどのショックで、これから先無事に生きていけるのだろうかとさえ思った。似たようなニュースは後を絶たない。先日も新聞で、祖父が孫を・・といった記事が載っていた。これも辛い過ぎる出来事である・・・。誰しもわざと轢く人はいない・・・・。
しかし、ひき逃げ事件はやはり後を絶たないし、それとは比べられないことだとは思うが、動物のひき逃げも多いことは事実だ。特に猫の礫死体は多い。猫の場合、犬と違って発情期になると、後先省みずメスを追いかけて道路に飛び出す結果、あのように轢かれてしまうようだ。車を運転する人で、猫の礫死体を見たことがない人はいないだろう。それくらいよく死んでいる。しかしここで私は思う。その猫を轢いた人はどんな人なんだろうかと。轢いた後どんな気持ちでいるのか、轢いてしまってから立ち止まる余裕もないほど急いでいたのか、それとも轢いたことを認識しながら、たかが猫と思ってその場から去っていったのか、その人達に聞いてみたい。せめてその場から脇へよせてあげるとか、明らかに死んでしまった場合、自分の車に積んで翌日埋葬してあげるくらいの気持ちはないのだろうか。道ばたでそのような猫の死体を見かけるたびに、私はそのように思ってしまう。その轢かれた猫がもし飼い猫で、その帰りを待つ飼い主がいたら・・・。自分の肉親をわざと轢く人がいないように、自分のペットをわざと殺す人もいないはずだ。帰ってこないペットを待つ飼い主の気持ち、これはペットを飼ったことのない方には理解できないものであろう。
不幸にも子どもができなかった理由からペットを飼っている人とっては、ペットの存在の意味たるや相当のものがあるのだ。だから、たかが猫一匹轢いたくらいで、などと思わないで欲しいものだ。もしそんなふうに思う人間は、少なくとも私は軽蔑する。
私がここで書いているのは、単なる動物への愛護精神ではないつもりだ。ましはて決して私は動物愛護団体の一員ではないし、間違っても博愛主義と名乗れるほどの人間でもない。命の重さについて一考してみたまでである。ただ、自分の体験を通じて、もし同じような体験をしている方がいらっしゃったら、傷のなめあいではないが、慰めにでもなれば幸いと思う。
はじめに述べたインコを亡くしてしまった女の子は、事故から3日目の今日塾に来てくれた。同じような体験をしたものとして、少しでも慰めてあげたかったので、来てくれて嬉しかった。
彼女もこれを機会に、生ある者への尊厳な気持ちを少しでも抱いてくれたら、不幸中の幸いと、私は思う。今回の出来事は13歳の彼女にとって、あまりにもショッキングだったろうが、この悲しみを乗り越えたら、彼女も一回り精神的に成長するのではないだろうかと、私はこれから見守って行くつもりである。同じ傷を持つものして。